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三好長慶の名言は?どんな人?

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室町時代から戦国時代にかけて活躍した武将三好長慶。

今回は名言をご紹介しつつ、どんな人物だったのかも解説していきます。

三好長慶の名言は?

三好長慶の名言は見当たらなかったのですが、和歌が残されているのでそちらをご紹介します。

三好長慶の和歌1

難波がた 入江にわたる 風冴えて 葦の枯葉の 音ぞ寒けき

(なにわがた いりえにわたる かぜそえて、あしのこのはの おとぞさむけき)

 

集外三十六歌仙に選ばれた和歌です。室町時代から江戸初期にかけての歌人をとりあげたもので、武田信玄や伊達政宗、毛利元就なども選ばれています。

難波とは現在の大阪です

とても風情のある和歌ですね

三好長慶の和歌2

生駒山 まぢかき春の 眺さへ かぐわふほどの 花ざかりかな

(いこまやま まぢかきはるの ながめさへ かぐわふほどの はなざかりかな)

 

生駒山とは奈良県生駒市と大阪府東大阪市にまたがる山です。

まぢかきとは間近にという意味です。

戦国武将が詠んだとは思えないくらい綺麗な歌ですね。

三好長慶の和歌3

歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし

(うたれんが ぬるきものぞと いうものの あずさゆみやも とりたるもなし)

和歌についての解説はあまり残っていないのですが、こちらは解説が残っていました。

三好長慶は実は信長よりも早く天下を統一していたという最近注目を集めているようです。

それくらい武力もあったのですが、晩年になると連歌に没頭しました。

教養人としての三好長慶を文事ばかりしていて弱々しいと批判された際に詠んだ歌だそうです。

なかなか皮肉の聞いた歌です。

三好長慶はどんな人だった?

三好長慶(みよしながよし)は1522年に阿波国で生まれました。

三好家は畿内(現在の京都、大阪、奈良のあたり)での最大勢力だった細川家に仕えていました。

しかし、1532年に本願寺の信徒が起こした一向一揆で父が亡くなってしまいます。

この時長慶は11歳。

このまま三好家を継ぐことになりました。

小さい頃から優秀

11歳ということで、三好家は衰退するかと思われましたが、先ほどの一向一揆では細川家の細川晴元と、本願寺の宗主を引き合わせ和睦を成立させるなど、才能を発揮します。

織田信長より前の天下人だった?

その後、畿内で勢力を伸ばしていった長慶。

なんと、本願寺の一揆集と組んで細川家と戦いを挑みます。このあたりがすごいですね。

ただ、時期尚早と感じた長慶は細川家と和睦を結び、細川家に支えることになります。

その後も大活躍した長慶は細川家を盛り上げていきます。

1547年に室町幕府将軍足利義晴を撃破します。

これによって幕府の権力は失墜し、細川家が畿内最大の勢力となります。

三好政権を樹立

最大勢力を誇った細川家ですが、長慶は細川家の中で発言力を増していき、逆転関係になっていきます。

こうなると面白くないのは細川家です。

長慶と細川家が激突し、当主である細川晴元は京から逃亡します。

これによって三好長慶は畿内を制圧することになります。

最終的に室町幕府を滅亡させたのは織田信長と言われますが、最初に権力を失墜させ、実権を握ったのは三好長慶と言われます。

悲しい晩年に

勢力を拡大した三好長慶でしたが、支えてくれていた弟の死や、息子の死で心身ともに弱ってしまったそうです。

家臣に騙され、最後に残った弟を自分の手で殺めてしまうのですが、実は弟は無実であったことを知り、その後悔もすざましいものだったようです。

そこから2ヶ月43歳の若さで亡くなりました。

たら、ればを言っていたらきりがありませんが、そのままの勢いでもう少し長生きしていたら日本の歴史も変わっていたかもしれませんね。

まとめ

今回は三好長慶の和歌とその生涯を書いてみました。

天下人といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が有名ですが、今後は三好長慶も覚えておきたいですね。

大河に選ばれるか??という話も出てますので、楽しみに待ちましょう!